南野加代子さん2009年8月8日
南野加代子さん2009年8月8日

本書にはあまり詳しく触れていない、みつや交流亭の生みの親である南野加代子さんのことを記しておきたい。(かたよせとしひで)

 

タウン誌「ザ・淀川」編集長の南野佳代子(本名:中佳代子)、多臓器不全のため2009年9月15日逝去、享年64歳。
1945
年大阪府堺市生まれ。商社勤務ののち、ヨーロッパ、アメリカに3年半滞在。81年大阪市淀川区のタウン誌「ザ・淀川」を創刊。NTT全国タウン誌フェスティバルで「タウン誌大賞奨励賞」受賞。99年大阪市「きらめき賞」受賞。経営難で休館したミニシアター「第七藝術劇場」の復活のため市民出資を募るなどし、02年同劇場再開に貢献した。このほか「ザ・おおさか」編集長も務めた。                    (weblog 2009.9.18

 「ごった煮の味、オンリーワンの花盛りのような街やと思います」。隅から隅まで駆け回る淀川区をそう表現するタウン誌「ザ・淀川」の編集長・南野佳代子さん(63歳)。27年間毎月発行し続け、地域社会の活性化や文化・教育の振興に努めている。昨年は大阪市民表彰(文化功労部門)を受章。「何もないところから何かを生み出していく喜び」を励みに、一人で何役もこなすパワーの塊のような人だ。

◇フリーペーパーの先駆者◇

 「ザ・淀川」はB5判・48ページのフリーペーパーである。毎月9万部発行し、淀川区の各家庭や公共施設などに配布。イベントで楽しむ子どもたちや地域活動に取り組む人や外国人、行政のお知らせ、赤ちゃん・ペットの自慢まで、にぎやかに紹介されている。創刊は19815月。結婚を機に、たまたま淀川区に住んだものの、ひとりの知人もいない。「だからこそ、未だ見ぬだれかに、手紙を出すような気持ちで原稿を書きました」

 それまで大阪府関連のPR誌の編集記者などを経験しており、ノウハウは持っていた。取材も編集も営業も一手に引き受け、何日も徹夜して完成した創刊号。「住所と電話番号が抜けていて、慌ててゴム印を押して配った()。でも予想以上に反響があり、当初10数万円だった広告収入が毎号増えていった」

◇コンセプトは“ 地域も地球も”

 紆余曲折を経ながらも「できるだけキメ細かく地域の情報を」という姿勢は変わらない。地球規模の話題も積極的に取り上げる。「草の根的な活動を大事にしています」

 4月から、市内296小学校区を対象にして、地元住民に編集長・発行人になってもらう、月刊ミニ・ミニタウン誌「ご近所ネット」(B54ページ)をスタートさせた。「教育コミュニティの大切さ」を痛感しての企画である。

 内容は各編集長の采配で、自由に編集してもらう。紙とネットの両媒体を融合し、広告に携帯電話からネット接続できるQRコードを付けるなどの工夫も。「4月に出たのは地元淀川区の3誌と都島小学校の1誌ですが、市内全小学校区で発行できたら、大阪市が変わるんじゃないかな」と期待する。

◇すべて自分の栄養に◇

 今でもカメラを持って取材に回り、編集も営業もこなす。二人の娘が幼い頃は、自転車の前と後ろに乗せて走り回っていた。「しんどいことは数えきれないほどあった。休日や夜の取材、会合などは、行く直前まで足が鈍ることも多い。でも、現場に着くや来てよかった、来なければ、この話は聞けなかったし、この人に出会えなかったと思う。自分の人生が豊かになった気がします」.

 人との交流で得られる心の充足感が、活動の幅をどんどん広げていく。昨年8月には商店街の空き店舗を利用して誰もが気軽に立ち寄れる交流拠点「みつや交流亭」の開設にも奮闘した。「情報は人を動かす力がある。ささやかな力ですが、タウン誌を通じて、少しでもまちを変えていきたい」 まちづくりは、一途に一生懸命になる人がいないとコトが始まらない。人と人のつながりを大切にし、市民の目線で、まちづくりに取り組み続ける覚悟が伝わってきた。(文・江中咲紀/表紙写真・高島悠介)いちょうネット大阪2008.5

 

佳代子さんの手のひらの上でみんなが踊っているうちに・・・

片寄俊秀(みつや交流亭世話人)

 みんなが彼女の手のひらの上で、飲めや歌えやと踊っているうちに、だんだん「かたち」になっていき、「みつや交流亭」が生まれた。これだけの大仕掛けのできる大人物は、そう居るものではない。踊る場を失ったわれら凡人集団は、さてこれからどう振舞えばいいのだろうか。途方にくれるばかりである。

 あの全国を飛び回る有能多忙な早稲田商店街の藤村望洋さんが、彼女の通夜に出席するためだけに飛んでこられた。数百人という通夜者の多彩な顔ぶれをみて、「この人のすごさを、周りの人は本当にわかっていたのだろうか」と彼がつぶやくのを聞いた。われわれも、本当に彼女のすごさがわかっていたのだろうか。

 じつは葬儀の翌日、彼女が設立運営に尽力されたナナゲイ(第七芸術劇場)で大阪ではここでしか上映しなかった「未来の食卓」というすてきな映画を鑑賞した。ガンで次々と命を失う人が増えているなかで、食の改善が基本だと取り組んだフランスの小さな村のお話である。共感と深い感動を覚えて、あらためて彼女の偉大さを身近に感じた。

 ところで、放り出されてしまったわれわれは、さてどうすべきであろうか。私の提案は、集まったとてさしてよき知恵も出そうにはないが、ここは初心に帰るしかなかろうということ。つまりいまできそうなのは、彼女をさかなに、われらが唯一共通の目的「うま酒を呑む」ことしかない!のではないか。とりあえずは「水都2009」にあやかり「酔都×粋人2009・佳代子をさかなに」を提案したい。場所は、十三駅前の「富五郎」しかない。わやわやと騒がしいばかりの、締りのない集まりになることは目に見えているが、そこに多様多彩な新たな出会いが生まれれば、彼女の思いのある部分を受け継げそうな気がする。

 わたし自身、決して長い付き合いがあったわけではない。知り合ってほんの数年だが、ずっと昔からの親しい友人のように接していただいた。じつはこの88日の「なにわ淀川花火大会」が、いわば最後の出会いになった。そのときの生き生きとした彼女の笑顔は、とてもその一ヶ月後に旅立つ人とは思えなかった。ご病気のことはうすうす知っていたが、花火が始まるまでは会場のあちこちで出会った知人との立ち話、ドドーンと始まるやカメラをもって走り回る姿に、病の影はこれっぽちも感じなかった。病魔との苦しい闘いを他人にみせまいと、かなりの努力をしておられたのではなかったか。

 

 ここで少し、事情をまったく知らない人のために、彼女の手のひらの上で20078月に生まれたわれらの「みつや交流亭」のことを説明しておきたい。場所は大阪市淀川区の阪急神崎川駅にほど近い「三津屋商店街」のなか。わたし自身がこのプロジェクトに参加したきかっけは、1996年から2006年までの間、関西学院大学総合政策学部に勤務していたうちの9年間、フィールドワークの拠点と称して兵庫県三田市の商店街に、まちなか研究室「ほんまちラボ」を開設してさまざまな活動を展開し、「商学連携」の先駆けとて各方面から高く評価されたことを南野さんがよくご存知であり、縁あって声をかけていただいたことによる。だから「みつや交流亭」は、私自身にとっては、それに続く「商労連携」の「労組版・まちなか研究室」ということになる。

 さて「いつや交流亭」設立のきっかけをつくったのは、まちがいなく南野さんである。

 彼女の周りには、地域をこよなく愛するさまざまなメンバーが集まっていて、その一人に大阪市淀川区役所に勤めるTさんが居て、南野さんに相談をもちかけた。彼は大阪市職員労働組合(大阪市職)の支部役員という立場にあり、2005年に「発覚」した「ヤミ給与」の問題などで、労働組合がめためたに叩かれたときに、市民の批判の的にさらされた一人であった。一番ショックだったのは、労組側の言い分を市民が誰一人として応援してくれなかったことだったという。日頃の業務では市民に良かれと懸命に仕事をこなし、その代償として例えば「職員互助組合への出資金の増額」などは労使交渉の「成果」のつもりであった。ところがすべて「ヤミ給与」とひと括りにされて全部剥奪された。組合員は猛反発したが、市民からは「当然だ、まったくけしからん」という冷たい反応しか返ってこなかった。

 「市民に頼りにされ愛される公務員労働者でありたい」「アフターファイブは一市民。まちなかに飛び込み、まちを元気にしたい」「まちおこしに加わり、行政にも反映させたい・・」ずっと考えていたという彼の訴えに、その人柄と仕事ぶりをよく知る南野さんは、かねて抱いていた計画実現のときがきたと直感したらしい。

 さっそく阪急十三駅前の居酒屋「富五郎」に、南野さんが選んだメンバーが集められた。その後もどんどん増えていったが、中心的なメンバーを紹介すると、ミュージシャンでもある三津屋商店街理事長の濱西正次さん、落語家、建築家、子育てサークル代表、商店街にあるデイサービスの主任、大阪市職の本部執行委員やTさんの仲間、そしてこのわたしと当時私の勤めていた大阪人間科学大学環境・建築デザイン学科のゼミ生の中井くんなどなど。南野さんとわたしの出会いは尼崎南部再生研究室(あまけん)の会合で彼女が「ミニコミ編集のコツ」を講演されたときで、以前から彼女は「ほんまちラボ」に注目していたとのことであった。

 さて「みつや交流亭」である。さきのメンバーを中心とした「研究会」での語り合い(実態はほとんど飲み会であったが)が約半年間続けられ、その過程で、商店街としての活気はいまひとつだが、昭和レトロの魅力と雰囲気を色濃く残している三津屋商店街の中の空き店舗を、労組が資金を出して借用し改装して「市民交流の場」にすることとなった。そのかたちのモデルが「ほんまちラボ」だったのである。

 濱西理事長の尽力で借用できた古い木造2階建ての元和菓子屋を、みんなで掃除し改装。ユニバーサル・トイレや子どものための水のみ場もつけた。新装開店は商店街のまつり「みつやどんたく」の2007823日。その後「みつや交流亭」は順調に活動を展開し、いまでは毎日昼間に子育て広場が開かれ、午後には学校帰りの子どもたちが集まり、夜には落語会や地域の自治会の集まりなどにも使われている。労組色はまったく無く、さまざまな人々が自由に交流する場である。全国には数多くの労組があるから、交流亭の評判が広がり同様の動きが広がると各地の物産や人の相互交流がすすみ、これがまちに新しい活力を注入し、やがてNPOとして自立の道を歩む予定の交流亭に、収入の道も開けて持続の可能性がみえてくる。

 

 

 「みつや交流亭」を舞台とする労働組合と商店街再生との結合という、まさに前代未聞、わが国最初の、ひょっとすると世界最初の試みは、彼女の幅広い人脈と両者への深い理解と壮大な構想力なしにはあり得なかった、と思う。当初からわたしは予言しているのだが、この試みはひとり「みつや交流亭」にとどまるものではない。おそらく全国、全世界に波及して、壮大な運動へと発展するに違いない。その過程で、労働組合も、商店街もそして周りの市民も、みんながwin,win,winの関係、つまり「三方一両の得」のすばらしい世界が生まれるだろう。運動発祥の地「みつや」は、やがて世界の人々が憧れる「聖地」となり、佳代子は「伝説の人」となろう。われわれ自身もまた、その伝説を日々刻みつつある一人であることを自覚して、つねに初心(うま酒)を忘れず、彼女の思いをさまざまに受け止めて前向きに生きていこうではないか。